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生活に寄り添い「変化」を続ける器~肥前吉田焼

2017年02月06日

生活食器を中心に400年の歴史

 佐賀県嬉野エリアで生産される陶磁器は「肥前吉田焼」と呼ばれています。その起源は、肥前の大名・龍造寺隆信の家臣が、吉田村を流れる羽口川の上流・鳴谷川の川底で白く光る石を発見したとされる1577年までさかのぼります。この白い石は、日本で最初に発見された陶石ともいわれています。

 豊臣秀吉の朝鮮出兵に際し、多くの朝鮮陶工を連れ帰った鍋島直茂(佐賀藩祖)は、1598年にそのひとりを吉田山へ送り、嬉野で陶磁器づくりが始まりました。以後、有田の磁器生産を支える産地として生活磁器を中心に作ってきましたが、17世紀半ばには佐賀支藩・蓮池藩主の鍋島直澄が吉田山の陶磁器業者を督励し、19世紀に入ると陶工・副島弥右衛門が窯数を増やしたことで吉田焼は生産量を増していきます。
 
 その後、生産過剰になり次第に衰微しますが、明治政府の産業奨励により1880年に陶器製造会社・精成社を創立、改良を図りました。一時は中国や朝鮮向けの日用食器製造で勢いを取り戻し、1911年には有田の技術者を迎えて錦絵にも成功しますが、やがて海外市場から撤退し、国内向けに転換しました。

受け継がれるリベラルな作風

 有田、伊万里など磁器生産が盛んな肥前の地にありながら、その下請け的存在であったことから、400年の歴史を持ちながらも有田焼ほどの知名度が上がらなかった吉田焼。有田焼のようなハレの日の器としてではなく、日常で使われる生活雑器を作りながら、その伝統を紡いできました。

 17世紀に中国の呉須赤絵に似せた色絵磁器が作られ、東南アジアなどに輸出されましたが、有田焼の絵付けのようなオリジナルの様式はありません。装飾は伝統的な青磁から現代的なデザイン、伝承や物語をあしらったものなど実にさまざま。用途も湯呑、茶碗、酒器のほかコーヒーカップ、花瓶まで幅広く、決まった様式のない自由なものづくりが、その特徴とも言えます。

 かつて、食堂や旅館などでよく見かけた水玉模様の急須・湯呑も吉田焼を代表的する商品のひとつですが、リデザインによって2010年にはグッドデザイン・ロングライフデザイン賞を受賞するなど、その価値が改めて見直されています。2016年には商品開発コンテスト「肥前吉田焼デザインコンペティション」を開催し、伝統技法とプロダクトデザインの融合による新たな可能性を模索しています。

 伝統技法を守りながら生活に寄り添い、時代とともに変化を続けてきた肥前吉田焼。変化を恐れないチャレンジ気質は、脈々と受け継がれています。